がんばれ北海道   ノンフィクション作家 合田 一道
第7回 歴史から見えるもの(7)―八雲開拓の影に怪事件―

徳川家系図  北海道の歴史の中で、極めて特異なのが八雲の開拓です。ある大事件がもとで、故郷の尾張名古屋を追われた武士たちが、この地に入り開拓を始めたのです。人々の運命を変えた事件から話を始めましょう。
 慶応3年(1868年)12月、王政復古の大号令が発せられ、それまでの幕府の政治から天皇親政になりました。朝廷は尾張徳川家14代藩主の徳川慶勝を「議定」に任命します。議定とはいまの総理大臣に匹敵する要職です。
 慶勝はすでに弟の茂徳、続いて幼い実子義宣に藩主の座を譲り、隠居していましたが、この任命を受け、喜びます。同藩は「徳川御三家」なのに、これまで将軍を出すこともなかったので、藩内も沸き立ちました。慶勝はすぐ京都にのぼり、政務につきました。
 ここで徳川家について説明しますと、徳川宗家(将軍家)の下に「御三家」「御三卿」が置かれ、将軍後継者がいない場合は御三家・御三卿から出すなど、宗家を支えていました。(図参照)
 ところが翌慶応4年(明治元年)、戊辰戦争が起こり、朝廷は前将軍徳川慶喜の征討令を発し、慶勝の子の義宣に征討軍東海道先鋒を命じます。これにより御三家の1つが徳川宗家を討つ形になったのです。
 京都にいた慶勝のもとに、国元から密使の監察、吉田知行が駆けつけ、
「佐幕派の一味が幼君義宣を奪って江戸に下り、旧幕府軍に合流して京都に攻め上ろうと企んでいる」と伝えました。驚いた慶勝の命で在京の家老らが新政権の中枢にいる岩倉具視を訪ね、勅書を受け取ります。
 京都を発った慶勝は1月20日、尾張名古屋城に入り、佐幕派とされる渡辺新左衛門ら3人の重臣を、「朝命により死を賜るものなり」と告げ、理由も告げずに斬首し、さらに25日までに14人の藩士を、次々に斬首したのです。これが青松葉事件です。
 明治4年(1870年)、朝廷は太政官制をしき、慶勝は議定の座を追われます。慶勝は中央集権体制が確立するまでのつなぎ役でしかなかったのです。そのうち「尊い血を流したあの青松葉事件は何だったのか」との声が高まりだし、吉田ら密使に対する批判も出てきました。
 吉田らに危害が及ぶのを恐れた慶勝は、士族授産の名目で北海道開拓をしようと、吉田を現地調査に向かわせます。
 明治11年(1878年)、吉田ら先遣隊9人は遊楽部川(八雲町)の河口付近に入植し、開拓に着手しました。これが八雲開拓の第一歩となったのです。八雲の町名は、尾張徳川家18代徳川義礼が熱田神宮の御祭神のうちの一柱である素盞嗚尊の詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに…」から名づけたものなのです。
 道内の地名はアイヌ語を語源としたものがほとんどですが、ここが特殊なのは、こうした理由によるのです。