参議院議員 橋本 聖子
第1回 私の礎

 北海道・苫小牧近郊の早来町の牧場で生まれ育ちました。父は厳格でした。今、振り返ると、私の礎は父の厳しいしつけによって築かれたものだと深く感謝しています。しかし、その厳しさたるや半端ではありませんでした。口答えなどは、言語道断です。朝晩、正座して三つ指をついて挨拶し、父母はもちろん、兄や姉にも必ず敬語を使って話しました。
 父は「反射神経を養うため」と、幼稚園に入る前から乗馬を教えてくれましたが、集中力が途切れて、少し油断した瞬間に馬に鞭を入れます。落馬しようものなら、言葉より先に鞭でぶたれることがしばしばありました。また、寒い日に自転車の練習をしていて、「お父さん、できません」と努力を放棄したときは、激しい叱責を受け、薄氷の張った池に頭から放り込まれました。父に叱られると涙を流すことは許されず、泣き止むまでさらに怒られました。
 父が妥協を許さなかった分、母には私を慈しむ気持が強かったと思います。割烹着姿で台所に立っているときも、畑仕事をしているときも、学校から帰った私を迎えるときも、母は不思議なくらい優しい存在の人でした。
 ある時、なんか無性に悲しくて、母に甘えたくて、涙が止まらなくなったことがありました。私は布団にうつ伏せになって駄々をこねるように泣きじゃくっていました。母は私が泣き疲れるまで、「もっと泣ける、もっと泣ける」と子守歌を歌うように笑顔で私の体をさすってくれました。父も母も農家に生まれ、北の大地でどう生き抜くかという厳しい時代に育ちました。二人とも、涙が出ないほどの悲しみや辛さを知っていたのだと思います。
 両親から「勉強しなさい」と言われたことは一度もありませんでしたが、家事や牧場の仕事の手伝いをするのは、当然のことでした。牧舎の敷き藁(わら)の交換、馬や牛への餌やりや農場の野菜の間引きは、生きものの命を左右します子どもだからといって、責任逃れは許されません。餌の入ったバケツもスコップも私の小さな手には重いものでしたが、自分に与えられた仕事を放り出せば、そのために生きものが死に、明日食べるものがなくなるということを全身で感じていました。「食べるものも食べられずに育った」という両親が経験した自然との戦いとは少し違いますが、私自身も毎日の生活の中に「小さくて優しい命の道筋」を学びました。
 私が結婚するとき、周囲は父が反対するのではないかと危惧しました。相手には、病気で亡くなった先妻が残した三人の子供がいたからです。しかし、父は「お前が自信をもって紹介するのだから、確かな男だろう。顔を見る前から賛成だ」と言いました。この上なく嬉しいほめ言葉でした。
 親となった今、子どもを厳しくしつけることの大変さを実感しています。父のようにできるか、母のようにあれるかと自問自答する毎日です。父と母の子であることが私の誇りです。