天皇弥栄(すめらぎ いやさか)  慶應義塾大学講師 竹田 恒泰
第2回 「女帝」とは何か

■例外なき男系継承
 これまでわが国には125代の天皇のうち八方十代の「女帝」(女性天皇)の例がある。「八方十代」というのは、譲位後に再度即位された女帝が二方いらっしゃったことによる。
 そのうち、六方八代は飛鳥時代から奈良時代にかけての200年間に集中し、その後は800年以上女帝の即位はなく、江戸時代になって二代の女帝の例を見る。女帝は、特別な事情がある場合に限ったもので、次の男系男子が即位するまでの中継ぎ役だった。
 そのため、女帝は一代限り認められるものであり、女帝の子孫が皇位に就くことはこれまで一度もない。一旦女性が皇位に就くと、生涯未亡人、もしくは未婚を貫かなければならない不文律があった。
 女帝が一代限りとされたことで、女帝の次は本来皇位に就くべき男系の男子に皇統が戻るため、また女帝自身も男系子孫であることから、皇位はこれまで例外なく歴代天皇の子孫によって継がれてきたことになる。

■女帝は一代限りの暫定政権
 多くの女帝が出現した奈良・飛鳥時代は、まだ皇位継承の制度が整っていなかった。そのため、天皇の代替わりに混乱が生じやすく、暫定的に女性が天皇に即位することがあった。
 最初の女帝・推古天皇は欽明天皇の皇女で、敏達天皇の皇后だった。敏達天皇が崩じると、弟の用明天皇が即位するも間もなく崩御となり、続けてその弟の崇峻天皇が即位する。しかし、後継者が決まる前に崇峻天皇が暗殺されたことで、政治混乱の中、皇位継承を巡る争いを避けるため、皇太后の推古天皇が天皇に即位した。これより争いは回避され、次の世代への筋道がつけられたのである。
 「女帝は男子の継承者不在につき女性が天皇になった例」と勘違いする人が多いが、そのような例は一度もない。推古天皇の場合はむしろ逆で、皇位継承の候補者が多過ぎ、混乱を避けるために皇太后が即位した例である。二番目の女帝となった皇極・斉明天皇も、皇位継承の争いを避けるために成立した。

■成長を待つ女帝
 三番目の女帝・持統天皇からは成立の背景が違ってくる。天武天皇の次には草壁皇子が皇位を継ぐ予定だったが、若くして亡くなったため、その子、珂瑠皇子を継承者とした。しかし珂瑠皇子は若かったため、女帝・持統天皇が成立し孫の成長を待った。
 また、四番目の元明天皇は子の成長を待つため、五番目の元正天皇と六番目の孝謙・称徳天皇はそれぞれ弟の成長を待つために女帝となった例である。
 一方、江戸期に859年ぶりに成立した七番目の女帝・明正天皇はまた違った成立背景を持つ。朝廷と幕府間の政治的摩擦の結果成立した女帝だった。後水尾天皇は紫衣事件などで幕府と深く対立し、天皇は不快感をあらわに退位し、幕府への抗議の意味を込めて、まだ7歳の内親王を即位させた。八番目に最後の女帝となった後桜町天皇は、弟の桃園天皇が若くして崩じ、その皇子も幼少であったために、伯母が甥の成長を待つ形で即位した例である。

■男系継承は世界の常識
 ではなぜ天皇は男性であることが原則なのだろうか。これにはいくつか理由があるが、宗教上の理由が一番分かりやすい。
 日本の天皇は「祭り主」であり、権威的存在であるため、他国の「王」とは性質が全く異なる。世界には宗教的権威はいくつか認められるが、キリスト教でも歴代のローマ法皇と枢機卿は全て男性であり、チベット・ラマ教のダライラマ、ユダヤ教のラビ、イスラム教の神職なども男性でなくてはならず、その地位は多くは男性によって継承される。このように、宗教的権威を男性に限り、男系によって継承する考え方は、世界の宗教の常識であり、特別変わった考え方ではない。